大女優:ペッチャラー・チャオワラート

ペッチャラー・チャオワラート(Petchara Chaowrath)
タイ映画黄金期('60年代〜'70年頃の16mm映画全盛期)に活躍した大女優。ミット・チャイバンチャーと共に“ミット=ペッチャラー”として国民的人気を誇り、親しまれた。二人が特に活躍した時期にはタイで製作された映画の半数以上に出演しており、共演した映画は200本以上にのぼる。
以下の記事はThai Film Foundation の定期刊行誌“Nang Thai”No.11(01年7‐9月号)に掲載されたものをY.T.さんに要約・翻訳して頂きました。ありがとうございます!
元記事:http://www.thaifilm.com/thai/journal/petchara.html(リンク切れ)
ペッチャラー・チャオワラート、タイ映画界に輝くダイヤモンド
ペッチャラー・チャオワラートは、1961年宝籤局主催のミスコンで優勝し、チンダーワン映画社のシリ・シリチンダー氏に誘われ映画界入りした。初演映画は、ミット・チャイバンチャ ーと共演した「バントゥック・ラック・コーング・ピム・チャウィー」(62年)。それ以降、二人はタイ映画の象徴的な最愛のカップルとなった。そして、1978年彼女は女優生活から引退した。
ペッチャラー・チャオワラートは真のプロフェショナル映画女優であった。舞台劇やテレビドラマへ出たことはなく、主演映画は20年弱で300本を超える。ペッチャラーの演技力は学校 や研究所で理論的に演技指導を受けた俳優に劣るかも知れないが、銀幕に映し出された彼女の演技は実に生き生きとして独特の魅力に溢れ、タイ人大衆の心を掴んだ。ペッチャラーの演 じた役、即ち彼女の存在が、無視できない社会現象であったと言えよう。
ペッチャラーの際立った業績は、自然な本能に基づく演技を、タイの民俗芸能から古典舞踊に至る表現様式の枠内で伝達し、タイ映画の主演女優の演技様式を生み出したことにある。彼 女はその様式を、16ミリフィルム撮影機の前で、昼は輝く太陽に、夜は一万燭光のライトに照らされながら、約20年の間に徐々に発展させて行った。
1978年ペッチャラーは女優生活から引退したが、彼女の演技は銀幕の上で生き続けている。300本を超える出演映画のうち、現存しているのは半数に満たないが、それらは国家的文化遺 産として保護保全されるべきである。上映されれば、彼女の演技は蘇り、永遠の命が戻ってくる。
現在、ペッチャラーは暗黒の世界にいるが、彼女の心は明るく輝いている。大衆の前に姿を現すことはないが、声は聞ける。インタビューで、昔話や人生観を語たり、大衆に美しい心を 伝えている。最近、ペッチャラーは95MHz局のラジオ番組で、毎週金曜日9:00〜11:00、過去の体験を語たる新しい仕事に就いた。
ペッチャラー・チャオワラートは、ラヨーン県の生れ、本名をエーク・チャオワラート(愛称イート)と言い、7人兄弟(男3,女4)の4番目であった。地元の小学校(当時は4年課程)を卒 業し、15歳の時バンコクへ出て、姉夫婦のもとに寄宿する。補習学校へ入り中学3年課程を修了し、姉夫婦が経営する美容院を手伝っていた。そして、ミスコンに出場し・・・。
Q:ミスコンに出たのは、何歳の時ですか?
A:18〜19歳の頃です。姉婿の妹が応募しました。大勢の人前で歩くのは、とても恥ずかしかったです。
Q:映画出演の経緯ですが?
A:最初にブーラパーシン映画社から「メェ・ヨート・ソイ」への出演依頼がありましたが、関心がありませんでした。次に来たシリ・シリチンダー氏の話には心が動きました。「バン トゥック・ラック・コーング・ピム・チャウィー」は大好きなテレビドラマだったからです。直ぐに同意しました。映画の撮影なんて大したことはないと思っていたのです。
Q:ミット氏と共演することはご存知でしたか?
A:はい、シリ氏から聞いていました。ミットさんの人気が出始めた頃でしたが、彼の出演作は「チャート・スア」一本しか見ていませんでした。ハンサムなスタイルの良いスターだと の印象でした。
Q:映画の仕事が最も多かった時期は?
A:1963年から1972年までです。
Q:どうしてミット=ペッチャラーは大衆に人気があるのか、考えたことがおありですか?
A:どうしてか分かりません。個人的にはチャイヤー・スリヤンさんとの共演の方が良かったですね。互いに容貌が似ていましたし、彼は背もそう高くなく物腰は柔らかでした。だけ ど、ミット=ペッチャラーの方が大衆に人気がありました。
Q:撮影に際し、事前に台本を読みましたか?
A:多くの場合、撮影の当日見ました。幾つも仕事を掛け持ちしていた頃は、どう言う筋か知らないこともしばしばでした。ストーリーを話して呉れる場合もありましたが、多くの場合 題名はこれこれで、相手役は誰と聞かされるだけでした。
Q:初出演の前に演技の訓練を受けましたか?
A:受けていません。初めの頃は、恥ずかしくて大きな声が出ず口も大きく開かず、上映前に他人の声で吹替えられました。昔は、大声を出すな、大口を開けて喋るな、大笑いするな と、家で躾られていましたので。家では、踵を着けず爪先立ちで歩いたものです。だから、練習もしないで、映画でハイヒールを履いて走ることが出来ました。
Q:演技を指導する先生はいなかったのですか?
A:先生は監督です。監督によってそれぞれ特徴がありました。仕事を通して徐々に学んで行きました。殴られて倒れる場合、どうしたら自然に見えるか等、自分自身でも研究しまし た。
Q:一日に何本の映画を撮影しましたか?
A:多くは日中に屋外で一本、夜間に屋内で一本。夜昼続けて一本の作品を撮り続けることもありました。
Q:仕事が多かった頃、何本位抱えていましたか?
A:一月に20本は超えなかったですね。クランクインだけさせてくれと言うのもありました。写 真を配給会社に持ち込んで、資金を得て続きを撮影するのです。きちんとした撮影スケジ ュールがあるものから、撮影に応じて行きました。
Q:ミット氏のこと、本心ではどう思っておられましたか?
A:ミットさんを心から愛していました。如才なく、一緒に居ると心が和みました。お互いに腹を立てても、心から憎み合ったことはありません。何でも話し合いました。ミットさんは 仕事が大好きでした。私が新人の頃、何度撮り直しても嫌がらず、励まして下さいました。しかし、気に入らないと、演技しても顔や態度に出ました。こんなこともありました。サラブ リーにロケに行き、バンコクに帰って来たのは夜中過ぎでした。これから、別 の作品の撮影を3〜4カットやらせて呉れとのことです。ミットさんは、スタジオに入ろう、お墓に入れば 眠れる時間はたっぷりあるよと言いました。
Q:ミット氏が事故に遇った日(70年10月8日)、現場におられましたか?
A:私は行きませんでした。その日クランクアップするレーウ・ラタナガーン監督の「プッターン」に出なければならなかったのです。夜間の撮影に備えて、ナーンルーン地区のワッ ト・ケーに近い美容院で髪をセットしていた時のことです。一人の男が駆け込んで来て、ミット・チャイバンチャーの遺体がもうすぐワット・ケーに運ばれてくると言いました。昨日一 緒に撮影したのに何を言っているのだと思いましたが、今日の撮影で縄梯子にぶら下るシーンがあるのを思い出しました。電話で確かめ本当だと知ると、力が抜けその場にしゃがみ込み 「うそ、うそ」と叫んでいました。家に帰り着替えをしてお寺へ行くと、既に遺体は納棺されていました。開けて対面 しましたが、気を失っているだけだ…死んだなんて信じられません でした。
Q:ミット氏の事故の後、誰と共演されましたか?
A:ソムバット・メータニーさん、チャイヤー・スリヤンさん、ルーチャイ・ナルナートさんとが多かったですね。やがて、若手男性スターの育成に力が入れられました。当時の若手男 性スターには、カンチット・クワンプラチャー、ナーク・プーワナイ、ヨートチャーイ・メークスワン、クルン・シーウィライがいました。私から見れば子供です。私とラブシーンの撮 影の場合、彼らは私に遠慮して恋人らしい演技が出来ません。目に輝きを出せません。私は彼らに、あなた恋人がいるでしょ、私をペッチャラーでなく恋人と思いなさいと言ったもので す。
Q:女優を辞めて他のことをしようと、考えたことがおありですか?
A:子供みたいな若手男優との共演は面白くありません。年長のミットさんやチャナ・シーウボンさんとのようには、心が和めません。初めの頃のような楽しさが失われました。1972年 頃チャリン・ナンターコン監督から、女優を辞めて映画製作を手伝わないかと声を掛けられました。同じ頃から視力が落ち始めました。車を運転していて、二度も中央分離帯にぶつけて しまいました。目がよく見えなかったのです。
引退後の映画製作を夢見ていましたので、チャリン監督の映画「アイ・クントーン」(78年)に出資して製作に協力しました。主演はソーラポン・チャートリーとピヤマート・モーンユク ン、レウディ・パッタポンで、私はクントーンの母親役で出演しました。これが最後の映画出演になりました。当時、目に問題がなかったら、台湾、香港の映画製作に出資したいと思っ ていました。香港映画に出演した時、誘われていましたから。それに、私には中国人の血が流れているので。実現していたら、ミュージック映画やロマンチック映画を作っていたでしょ うね。アクション映画は嫌いです。
Q:映画「アイ・クントーン」の撮影が終った後は…?
A:目の治療に専念しました。色々余病を併発し、丸々10年以上も苦しみました。腕は上がらず、拳は握れず、全身が腫れて痛みました。呼吸も困難で、水を飲むのさえ少しずつでし た。目はかすみ、遂に全く見えなくなりました。よく生き延びられたと今でも不思議です。
人に言われたことをあれこれ試し、あちこちの医者に掛かり、信仰にも頼りましたが、希望と挫折の連続でした。今は痛みは消えました。引退後20年が過ぎました。
今は平静心でいられますが、これまで随分悩みました。人には会いたくなく、目はきっと見えるようになると思っていました。望みが強ければ、悩みも深くなります。この頃は、目が見 えなければそれは仕方ないと、気持ちを整理出来るようになりました。
Q:引退後20年して、ラジオの仕事に戻った御感想は?
A:これまで、話をしたり,声を使ったこともないのに、いきなりラジオに出ないかと言われ、戸惑いました。ウィタヤー・スパポンオーパート氏が訪ねて来て、君なら出来るよ、なに を喋ってもいいよと言われたのです。とにかく、一月やってみようということになりました。
Q:反響は如何ですか?
A:ファンからは好評ですよ。友達は、目が見えたときには、喋れなかったのに、さっき言ったことも忘れていたのにと言います。最初は緊張してドキドキしましたが、今ではラジオの お喋りがとても楽しいです。初回の放送が終ってウィタヤー氏に電話すると、良かったと言われました。彼はいつも励まして下さいます。仕事をすれば、それがどんな仕事でも、人生に 価値を与えて呉れるものです。
