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黄金期の大スター、ミット・チャイバンチャー

ミット・チャイバンチャー

ミット・チャイバンチャー(Mitr Chaibancha)

タイ映画史上最大のスター。タイ映画黄金期('60年代〜'70年頃の16mm映画全盛期)に女優ペッチャラー・チャオワラートと共に"ミット=ペッチャラー"として国民的人気を誇り、親しまれた。二人が特に活躍した時期にはタイで製作された映画の半数以上に出演しており、共演した映画は200本以上にのぼる。しかし'70年10月、『インスィー・トーング』(The Golden Eagle)撮影中にヘリコプターから落下して観衆の見守る中即死した。この後ミット不在の映画からは観客が離れてゆき、やがて黄金期は終わりを迎える。まさにタイ映画の歴史を動かしたスターであると言える。

以下の記事は下記のサイトを参考にY.T.さんに要約・翻訳して頂きました。ありがとうございます!
元記事:http://www.geocities.com/Hollywood/Hills/4039/index1.html

 1934年1月31日ペッブリー県ターヤーン郡生。本名はピチェート・フムヘーム(Pichet Pumhem)。両親が離婚し、祖父母のもとに捨て置かれたため、少年時代は"ブンティン"(捨てられた福)と呼ばれた。ワット・タークラティアン、ワット・ナームプラームに寺童(デック・ワット)(寺に寝泊りし雑用をする少年、貧しい家の子が多い)に出され、ワットチャン小学校に通う。8歳の時、バンコクのポーンプラーム区プラニヤン通りに住む母に引き取られ、ラーンルアン通りのタイプラサート学園に入学。

 '51年アマチュア・ボクシングのフェザー級学生チャンピオンに、翌'52年にはライト級チャンピオンになり、校名と共に自分の名も揚げた。高校課程修了後、プラナコン・カレッジの大学予備課程に入学するが1年で中退し、志願して空軍下士官候補生になった。軍役に服し、ドンムアン空軍戦闘大隊の訓練教官になり、空軍二曹の階級を授けられた。

黄金の鷲 そのドンムアンで親友が自発的にミットの写真をジャーナリストのキンケェオ・ケェオプラスートに送った。'57年初め、紹介者がいてミットはキンケェオと知り合い親密になった。そして、タイスター誌のスラット・プックカウェート主幹に会う機会を得た。スラットはミットをスィーアユタヤー撮影所のプラティープ・コーモンピットとレンサワン・タンティウォンに引き合わせた。'57年11月20日、両氏はミットを、ウォラワンの小説の映画化『チャート・スア』(Lineage of the Tiger)の主人公"ワイ・サクダー"役に抜擢した。監督のプラティープは"ピチュート・フムヘーム空軍二曹"に"ミット・チャイバンチャー"の芸名を付けた。ミット・チャイブンチャーの名が大衆に浸透したのは、『チャーオ・ナックレング』(やくざ王)で演じた"インスィー・デェング"(赤い鷲)ことローム・リットクライの役によってであった。

 '59年にヂャールワンと密かに結婚、'62年には男児ユタヤー愛称トンをもうけたが、結婚生活は破綻し、結局離婚することになった。ミットには自分の時間が持てなかったのが原因だった。彼の時間は全て大衆のものだった。

ミットとペッチャラー '59年、『バントゥックラック・ピムチャウィー』(肌に印した愛の記録)で、"ペッチャラー・チャオワラート"と初めて共演した。その後、おしどりカップルとして二人の共演は続いた。映画ファンは"ミット=ペッチャラー"と呼び、共演映画は200本を数えた。映画の中では常に恋人どうしを演じていた二人だが、実生活ではしばしばいがみ合い、共演中にも拘わらず何ヶ月も互いに口を利かないことさえあった。

 '61年末、プリーチャー・ブンヤキアット監督の『トゥアン・スリヤ』(太陽の槍)のロケ地を見に行く途中、自動車事故に合い、ミットは膝の皿を砕き、向う脛を骨折、頭蓋骨は陥没し、前歯を折るという重傷を負い、プリーチャー監督は死亡した。

 '63年5月30日、ミットは最愛の職務ドンムアン空軍部隊の空挺部を辞した。

 ミットが仕事で休みをとれたのは月に1日、毎月の15日だけ、従って休息日は年に12日のみであった。そして、ファンの人気を維持するため実生活では独身として振る舞わねばならなかった。

ングン・ングン・ングン '65年、ミットは女優のピッサマイ・ウイライサックと共に、信仰、義務感、友情、誠意の4部門で適格とされ、ゴールデンスター賞を下賜された。そして、この年アヌソーンモンコン殿下が、35ミリ、スーパーシネスコ、イーストマンカラー映画『ングン・ングン・ングン』(金、金、金)を製作し、ミットとペッチャラーが主演した。共演はチャリン・ナンタナーコンとスマリー・トーンローのコンビ及びステープ・ウォングカムヘーンとオラサー・イッサラーンクンのコンビ。それに、有名歌手15人が14曲の美しい歌を歌い、国を挙げて58人を超えるスターが出演し、この映画は史上最高の収益を上げた。翌'66年、芸能記者協会は、最高の収益を上げた『ングン・ングン・ングン』に主演したミットとペッチャラーに御下賜の表彰楯を授与した。

 ミット・チャイバンチャーの名で映画に出演して10年経った。'67年3月13日、ミットは姓をチャイバンチャーに改めるべく、改姓届をドゥシット区役所に提出した。その結果、'69年1月3日よりIDカード上の氏名が"ピチェート・チャイバンチャー"に改められた。

 '68年9月1日、ミットはバンコク都会議員に立候補し落選した。更に'69年にはプラナコン区から下院議員に立候補したが、これも落選。

 '70年、ミットは映画『モンラック・ルークトゥン』(田舎の恋の魅惑)で再びペッチャラーと共演した。ミットは農村の貧しい青年"クラーウ"をペッチャラーは村の金持ちの娘"トーンクラーウ"を演じた。幾多の障害に立ち向かい真実の愛を証明する葛藤の物語で、ドラマの進行に伴い14曲のプレーン・ルークトゥン(歌謡曲のジャンルの一つで、土俗的旋律を基調とし主に農民を歌った歌、田園調演歌)が流れる。ミット自身も2曲を歌っている。この映画は"ミット=ペッチャラー"に再度流れを引き戻した。バンコクで6ヶ月のロングランを続け6百万バーツを超える収益を上げ、タイ映画の新時代を画した。挿入歌もそれぞれ大ヒットし、バンコクの都会人さえプレーン・ルークトゥンを歌った。

 '70年、ミットはサーラー・チャルームタイ劇場の向かい側、パーンファー橋のたもとに、チャイバンチャー映画劇場の建設を計画し、地鎮祭を行った。また、同年ミットは香港のアクション映画にも出演し、姜大衛(David Chiang)と共演した。

インスィー・トーング 更に'70年、ミットは映画製作を始め、自身で監督主演した最初の映画『インスィー・トーング』(The Golden Eagle)で、インスィー・デェングことローム・リットクライをカムバックさせ、インスィー・デェングの偽者を捜索させることにした。共演のペッチャラーは、ロームの恋人ワーサナー役。カンチット・クワンバンチャーが偽のインスィー・デェング役。撮影は順調に進み、悪者を制圧して警官から逃れ悪の巣からヘリコプターで脱出する最後の場面を残すのみとなった。ミットは撮影地にチョンブリー県南パタヤのドンターン浜を選び、'70年10月8日の朝9時から撮影開始することにした。

 ミットは最後の場面の脚本を変更した。ワーサナー(ペッチャラー)がヘリコプターを操縦しロームを迎えに来て、ローム役のペットが警官から逃れ、ヘリコプターの縄梯子に飛びついて上って行く、そしてカメラはインスィー・デェングを連れて消えて行くヘリコプターを追うことにした。

ヘリコプター この場面の撮影の時、リアルさを求め、かつ観客のタイ人一人一人のため、ミットは自身で演技する決心をした。実際の撮影の際、ミットはヘリコプターの縄梯子に飛びつき、左手は4段目を右手は3段目を掴んだ。撮影前の取り決めで、操縦士は縄梯子に重さを感じたら、直ちに機体を上昇させることにしていた。そこで、操縦士はミットを見ることが出来なかったが、直ちに機体を上昇させた。機体が急上昇する強い力でミットの手首は捻挫し、縄梯子を上る力を失った。体は縄梯子にぶら下がったままだった。機体の上昇により、ヘリコプターからの風と自然の風の力に煽られ、ミットの体は空中になびき、手首を骨折した。機体が旋回した瞬間、強い遠心力により体を維持できず、ミットの体は空中に投げ出された。墜落してドンターン浜の地面に激突した。即死状態だった。

 '71年1月21日、ワット・ケーナンルンにて王室主催の火葬の儀が行われ、10万を数える大衆が参列した。

「私の新しい人生。それは、私が人生を方向転換させて始まった。ビジネスの世界に入り、映画の主演男優となった。私は映画の主演男優であることに、さほど喜びは感じない。ただ、人々が映画を見て、私によって慈悲の心を持ったことを知った時に、満足を感じる」 (タイスター誌 1960年1月号)